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日本のナイチンゲールと言われた大関和(チカ)
2017年7月 2日 08:37
塩原温泉、今朝はくもり。 しばらく、くもりがちの天気。 時折雨がぱらっと降ることもありそうです。 大雨になったりする地域もあり、 梅雨もそろそろ終盤に入っているように感じます。 昨夜は、北海道と九州で間をおかずに震度5弱の地震。 地震への警戒も忘れてはいけませんね。 さて、くろばね紫陽花まつりの花を見るついでに、 黒羽地区のプチ旅(と言っても半日ですが)をしたのは、 今までゆっくりと回る機会がなかったのと、 もう一つの理由に、 大関 和(チカ)という女性を輩出した、 黒羽と言う土地を感じたかったからでした。 大関 和(チカ)。 安政5年(1858)生〜昭和8年(1933)没。 黒羽藩重臣(後に家老)大関増虎の次女として生まれ、 一度同じ黒羽藩士と結婚するも離縁して、 29歳の時に、日本の本格的な看護婦一期生としての教育を受けた、 日本の看護婦の草分け、 後に日本のナイチンゲールと呼ばれた女性。 それ以前にも看護婦と呼ばれる女性達が、 帝国大学医科大学病院(現在の東大病院)などで働いていたそうですが、 本当にさわりのお手伝い程度の知識しかなく、 外国人教師より、西洋医学の看護教育を受けたのは、 大関 和ら、6名が最初だったと言います。 その時にクリスチャンとしての洗礼を受けています。 2年の教育の後、帝国大学医科大学病院の外科婦長となるも、 2年で退職して、新潟県高田へ。 高田女学校において看護婦の指導などにあたりました。 その後、東京に戻ってから、 さらに看護婦の質的向上と普及に尽力し、 東京看護婦会の会頭として、 看護婦派出業務に当たるほか、 『派出看護婦心得』や『実地看護法』などの著書を残し、 自らの「大関看護婦会」を設立して行きます。 大関看護婦会から、 自分の出身地である、 黒羽町長夫人の看護にあたる看護婦を派遣した折の、 黒羽町長五月女恕助や、担当医三田就吉宛の書簡が残されています。 当時の看護婦派遣の実際や、 栄養食や薬などの記載があり、 資料として大変貴重なものと思われます。 昭和7年に亡くなった時には、 新聞に大きな死亡記事が掲載されていますので、 名実ともに、歴史に残る偉人女性であることは間違いありません。 そのような女性が、この黒羽から輩出している・・・ 最初にお聞きしたのは、 地元の郷土史家の大沼美雄先生からでした。 以前、当家ゆかりの高尾塚の件で、 色々と教えていただいたご縁で、 今回も、地元にこんな女性がいるんだよと、 色々と資料を持ってきていただきました。 くだんの書簡は先生が、 ご自分も教鞭をとられる、 足利工業大学に寄贈されているようです。 黒羽藩というのは、代々の藩主が教育に大変力を注いでおり、 曹洞宗の大雄寺、臨済宗の雲厳寺という、 二つの大きな由緒ある禅寺がある土地柄、 藩士の男性だけでなく、子女にも、 質実剛健で、謹厳実直、奉仕などの精神が 培われていったのではないのかなと、 そんなことを、肌で感じてきたのでした。 松尾芭蕉も、奥の細道紀行で、 この黒羽の地を、重要な目的地の一つとしておりました。 それほど、メジャーな観光地ではありませんが、 いぶし銀のような、そんな場所であるかと思います。 どうぞ、紫陽花の花だけでなく、 黒羽という土地を、ゆっくりと訪ねてみて下さい。 写真は大沼先生がお持ちの 大関 和が、五月女恕助に宛てた書簡の写真を 昨年11月26日の産経新聞栃木版より、 あと二つは大関 和について書かれた書籍です。 |